昭和49年03月14日 朝の御理解
御理解 第37節
「生きておる間は修行中じゃ。丁度学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読む様なものであろうぞ。」
学者と言われる程しの人ならば、一生涯やはり勉強する事が楽しい物として、身に付いて来るだろうと思います。楽しい物と言う物どうでしょうかね。矢張りその身に着くと言う事です。勉強そのもの例えば本を読むと言う事、その事が身に着くと言う事です。身に付いてしまうと言う事です。ね。だから信心は丁度、その様な物であろうぞいと仰るのですから、ならどう言う信心させて頂いたら、そう言う信心が身に付いて来るかと。一生が修行と生きておる間は修行中という。
とにかく此の世は苦の世、苦の世界だから、もう苦労は絶え間がないのだと言う様な意味ではないと思うですね。もう苦労を苦労としない。言うなら楽しい勉強。所謂身に学問が着いて来る。言うなら学徳が着いて来る。だからその勉強が、もう身に付いてしまう。そういう信心をお互い目指さなければいけません。ほんならどう言う様な修行をさして貰うかと言うと、御道の信心の修行は、有難うならせて頂く修行だと思う。ね。愈々深く愈々広く、有難うならせて頂く為の修行なのです。
ですからもうそれこそ楽しゅうて楽しゅうて、有難うて有難うてと言う為の修行が、いうなら身に付いて来る滲み込んでしまう。所謂此の世は苦の世だ苦の世界だと言う様な苦労じゃない。一生苦労の詩人であったと言う様な苦労ではない。そう言う修行じゃないねそれは信心の若い時言うなら若い時には、あられもない修行もさせて貰うた。言うなら人間人生の色んな難儀な問題と言う物をに取り組んでの信心であった。その難儀な問題を通して信心が一段一段分からせて貰う様になり一段一段進ませて頂いた。ね。
まあ言うならば初めの間は本当に苦しい、苦しい人間関係又は死ぬか生きるかと言う様な病気の苦しみ。又は経済の上での金銭的な言うなら、借金で首が廻らんと言う様な苦しさの中からね。信心を覚えたのであり、頂いたのだ。というようなわけですから、なら一生その人が病気で苦労せんならんとか、一生、人間関係で、あの人は苦しみなさったと。一生、あの人は貧乏し続けなさったと言った様な修行では、私は始まらんと思うですね。そう言う問い題を通して有難くなる稽古をするんだ。
ですから神様が何時までも、病気をさせたり、何時までも人間関係での苦しみを与えなさったり、何時までも貧乏させときなさるはずがないね。ですから健康の上にも、人間関係の上にも経済の上にも、何一つ不自由のない人間の幸せを、言わば謳歌しながら、修行さして貰う。しかもその、それが身に付いて行く、身に滲み込んで行く有難さと言う物が、もう段々深く広くなって行くという修行でなからないけん。言うなら尊い修行でなからなければいけない。
昨日の十三日会の皆さんの発表を聞いておりますと、もう本当にそれを昨日、感じましたですね。七名の方でしたかね八名のまあ、秋永先生と共に確か八名だったでしょうか。のお話を頂いておりましてその人の信心の程度、程度に応じて言うならば其処ん所をはっきり頂いて行かれておるね。ですからそれが愈々稽古されて行ったら、まあ殆ど昨日の十三日会のお話を聞いておられましょうけれどもですね。もうその信心の、その段階と言う物を、はっきり一人ひとり感じる様な体験発表でした。
其処で皆さんがどの辺の所を通っとるかと、と言う事をまあめいめい反省させて頂いた訳ですけれども、本当に信心の修行と言う物は有難くならせて頂く稽古だなと。一切の事を例えば、合掌して受けて行けれる稽古だなと。一切の事をお取次ぎを頂いたら、それをすんなりと受けて行けれる稽古だなという事で御座いましたね。ですから私共がね、信心所謂生きておる間は修行中、いわゆる一生が修行中だとこう、ね。その修行が言わば同じ事であってはならない。
まあそれをまあ分類して言うなら、どういう信心になってくるかというと。初めの間はもう自分の難儀のために一生懸命打ち込んだと。ね。自分が苦しいから一生懸命打ち込んだ。それから段々信心が分らせて頂いて、もう人の為に一生懸命打ち込んで、人の助かる事の為に、信心が進んだと。ね。最後には、ね。神様の願いが成就する事の為に、一心不乱であると言う事です。ね。ですからもうその心配のねとか、苦労の程度が勿論違って来るです。それこそ天下国家の事が心配になる。人の事が心配になる。
もう人の段じゃない。天下国家てん何てんもう自分のことで、つう一杯だからと。ね。こら逆さまに言うたら、そう言う事になる。ですから自分の信心修行がです、ね。一生が修行と言われるその修行の段階がね。どういう風に進んでおるかと言う事は、今の私が申しました様な事を思うてみると分かるです。信心が進んでいっておると。ね。信心を言うなら、高めた所の時点での修行である。
そらそうですよね。中学、高校、大学と例えば、ね。言うなら大学の試験と高校の試験は、全然問題にならないほど違う。ね。中学においてはまた、ていどが低くなってくるはずなんです。自分の信心の有り難さというものが小学校か、中学校か、高校か大学かと言う事を、はっきり分からしてもらう。ね。でないとです、私は本当のおかげになって来ないと思うです。
昨日日田から、丁度御祈念がすんで御理解がすんだ頃に、いつも参られる坂本さんという方があります。非常に熱心に、もう、どのくらいでしょうか、もう何ヶ月か参って見えます。毎日、毎日参ってくる。この頃その信心、昨日綾部さんのお話でしたけれども、もうあーた、もう坂本さんがもう、日田中その、言うて廻る。とにかく信心な有難いと、とにかく、合楽の信心な有難いと言う事を言うて廻る。
まあそれであの、丸亀といわれるですね、あの綾部さん所。もうそれこそまあもうちょっと普通の者では考えも着かんような、その考え方が段々出来るようになってきた。まあ言うなら、合楽に傾倒してしもうておられるという、綾部さんのお話又自分が受けていきよる話をして廻る。もうそれで時々本当に困ることがあると言う様な話をしておられました。別にどこが分かって行きよりなさるやら分からんような感じですけれども、やっぱり段々有難いというものが募ってきた。ね。
そこで昨日などのなら、先生もいつからこの頃お尋ねしようお尋ねしようと思いよりましたけれどもと言うて言われるのに「先生御理解の中に何時も一心、一心という言葉が出てまいりますが、一心とは一体どう言う事ですか。」と言われる「あんたえらい事を尋ねたな」と言ってから、まあお話した事でした。「とてもこの話は、私が知っとる限りでお話しても、一冊の本になるぐらいあるよ」と、私が申しました。皆さんはどうですか。もう「一心ちゃ一心たい、」ち言う位じゃないでしょうか。ね。
やっぱり愈々その有難うなって行くという人は、その目の付け所が違いますよ。一心とはどう言う事ですかとね。そういう例えばんならその一心と言う事も説明するならばね、分厚い一冊の本を書かなければならないほどに、内容が難しい事だと言う事なんです。教祖様はその一心を、一心とは迷いのないことぞと教えておられる。一心とは迷いのないと言う事だ。またこれが大変難しい。どこまでが迷いやらね。どこまでが悟りやら分からない位に私は深い広いものだと思う。
三代金光様は一心の真と言う事をね。言っておられますね。同じ一心でも真、それが信心で言う一真なんです。なら一心と言う事はそら他の事にでも言えますからね。お百姓さんはお百姓さんでお百姓すると言う事に一心になる。商売人はねただもう金儲けの事だけに一心になる。というふうにも一心も色々使い所があるわけです。だから信心で言うのは、どう言う事かと言うとね。まあ今日の御理解を持ってするとね。
一心に有難うならせて頂く事の為に、一心の検討をして行く。追及をして行く事になります。だからまあ手っ取りばよう言うならね。というてまあ一口お話させて頂いたんですけれども、これから少しあぁたが、そういう素晴らしい事を追求されるなら、私も是から心してから、その事の説明を段々させて頂く。一遍に出来るこっじゃない。こういう体験をした事は無いですか。例えば頭が痛い腹が痛いね。また言うなら痛い痒いと言う様な事の時ですね。例えば洗面所で顔を洗う時がありましょう。
ブルブルやってから顔を洗う。そん時にはねもうその痛い、痒いを忘れてしもうておるでしょうが。あれが一心なんです。一心というのはね。もうそこにね痛いも痒いも、辛いも苦しいも忘れてしまうほどしのものが一心というのだとね。だからその一心を求めて、しかもほんなら信心で言う一心ですから、一心のまことを求めて信心をしているね。素晴らしいことでしょうね。しかもそれをです、稽古をして行くうちにです。昨日の十三日会に七名の方たちが、発表をされた。
その一つ一つの段階を追うてという感じで聞かせて頂いたけれども、同んなじおかげを受けたと言う事であっても、そのすんなりとした受け方受け入れ方というものがね。所謂信心の段階なのだ。ね。だから信心は楽しいのです。自分もああ言う様になれるんだとならもっと高度なものがある訳です。もう限りが無いのですね。折角信心をさせて頂くならね。皆さん信心修行でなからなければいけませんね。只ご利益目当ての修行では御利益を受けてしもうたらその修行は、もうやれやれと言う事になります。ね。
だからそれがいけないのではありませんよ。やっぱり一つの念願というものを持ってますから。ね。その念願が成就する事の為には、こん位のこっじゃいかんと気が着いたら、ね。矢張り是ではならんという、次の信心があるはずですから、ね。しかも自分が真と思うておる、その真の信心を目指してですね。一心を貫いていく。ね。そのうちに自分の信心の状態と言うか、一つの難儀なら難儀というものに取り組む姿勢というもの、姿勢も変わってくるしね。その受け方も換わってくる。
勿論それに伴うおかげの垢抜けさ加減というものも変わってくるね。だから楽しいのです。なるほど学者が年をとってもね。目がもう遠くなって目が段々薄うなって、眼鏡をかけてからでもやはり、信心のいや本を読むように。これは確かにそうですね。あのこの頃亡くなられました、豊美の行ったところのお爺さんですね。
古川隼人先生なんかは、まあいわば学者じゃなさいますが、もう本当にもう大変な言うならもう、重態状態にあっても枕元にちゃんと本が置いてあるです。そしてこう何か虫眼鏡なんかを持って寝ながらこうやってやっぱ本を読まれるです。それも大変難しいそれこそ本を読んでおられます。もう自分なもうわずかな時間私が最後にお会いしたのが、十二月の報徳祭でしたから、そして一月にですかね、にはもう亡くなっておられますよ。それでもやっぱり本を手元から外されませんでした。
面白い漫画の本でも読むというのではない。もうそれも私どもが見たって、分かりそうもないと言う様な本を、ちゃんと何時も読んでおられます。ね。もう身にしみこんでしまってる本を読むと言う事が。勉強うすると言う事が、ね。私共の信心も矢張り同んな事故とが言えるという意味の、例えを持って教祖様は教えておられます。ただここでだからお互いが、ね。生きておる間は修行中じゃ。自分が今難儀をしておる事がです。もうこりゃ生きておる間はしようがないと。
だからもうあの世で極楽に行かにゃと。だから一生懸命仏様やら、神様を拝んどいて、あの世で極楽に行く様にと言う様な意味での苦労、修行じゃないのですね。段々学徳が身について行く事の為の修行なんです。いうならば御神徳が段々身について行く事の為の修行なんですね。ですから修行の内容というものは、例えばほんなら私が、今朝から私はある事で大変悲しい思いをその事を思い出したら、もう悲しゅうなった。
もしそれをほんなら、前に子供達が三人こう控えがあるとの間に、私がいうならばそのいうなら悲しんでおる姿に触れてです。どうして今日は、親先生はその苦しみなさるじゃろか、悲しみなさるじゃろかと思うだろうと思うです。と言うてほんなら私の悲しみを彼たちに言うて聞かせても分からんですね。金が足らんけんという悲しみでもなからなければ、子供達がいう事を聞かんからと言う悲しみでもなからなければね。何か大事なものを無くしたからの悲しみでもなんでもないです。
それを私が皆さんに言うたって、皆さんは本当とは思われないですね。ほんなら、そういう事に私は悲しみを、今朝から感じさえて頂いておる。ね。これはある御霊様の事を、ふっと感じ出したんですね。そしたらそげな御霊様のこつ考えちから、悲しむてんなんてんね。言うならばです。ほんなら天下国家のことを心配しておる人をです。いうなら自分のことだけから、一歩も出ない人が見たらです。それこそ馬鹿げたことに見えるでしょうね。そげなこつ心配せんでんち言うでしょう。
同じ例えば心配でもそういう風に、段々言うならば神様がご心配になるような、神様が悲しみなさるような悲しみは、自分で出来てくるようになってくるのです。言うなら人間が苦しめるような事じゃ絶対苦しみよらん。人間が悲しまんなんごたる時には、絶対悲しみよる。悲しまんですむおかげが頂けておる。人間が驚く時には、驚かんですむだけの信心が出来て行きよるね。そして例えば針がおてたような、小さいね。
真夜中に例えば針が落ちた音とこう言う様な事を申しましょう。微妙な音と言う事。そういう音を聞いてっとこう身の縮むようにね、驚く事がります私は。それは例えば針がおてた音という事じゃないです。ね。神様とのある一つの交流をなすときにです。ね。もう本当にそういう時があります。ですから確かに心配でも、苦しみでもなか。継続という事ではないのです。ただそれが行動に成って行くこと言う事です。
いうならば分かりやすくいうと、人間が苦しまなねば成らない様な事には、苦しまんですむ、になって行くと言う事なんです。ね。ですから普通んなら信心のないもの同士がです。びっくりする様な事で、皆さんがびっくりしよったら、もう信心のないものも同じ事。ね。信心のない人が悩み寄る様な事では、あんた達が悩みよりなさるならばです。あぁたの信心ないっちょん進んどらんと言う事になるのです。
けれどもです。ほんなら昨日の十三日会の話を頂いてから、信心しよってもやはり、ね。おかげ受けておるけれども、所謂まだぎこちない。すんなりとして受けて行けてないと。けれどもほんなら、先輩の方達の話を聞いておるとです。ほほうああいうふうにすんなりと受けられる様になるんだなという見通しというか、ね。一つの目当てというものが置かれて来る様になる。ね。それこそ坂本さんじゃないですけれども。
いうならば信心さして貰うて一心の真を追求していくと言う事はです。ね。その人の信心の程度に応じて変わってくるでしょう。けれどもギリギリのものはです。今申します一心とはね痛い痒いをその一瞬、感じんで済む様なその一瞬があると言う事。その一瞬を広げて行く事なんです信心とは。ね。いうならば真に有難いというその心の状態の時には、心に生神が誕生した時なんです、ね。
それは私共は一瞬一瞬の場合に、それを感ずる事が出来るけれどもです。ね。それを一時間も二時間も持続する事は出来ないけれども、ね。それを一時間よりも二時間、二時間よりも三時間と。そういう心の状態を、ね。沢山持てれる稽古をすると言う事を、今日は聞いて頂きました。ね。どこを目当てに信心するか修行するかと。一生が修行中だけれどもその修行の焦点をです。有難うならせて頂く事の為の修行だと言う事を聞いて頂きました。ね。
どうぞ。